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キャンパスライフ

教員のエッセイ

「大学院生の頃(上)」

 とある事情があって、院試では自分で満足のできる成績をとることができなかった。日本育英会(当時)からの奨学金が貰えるということが私にとっては大学院進学の必須条件であった。これを満たす得点ではあったが、悔いを残した。得点を意識した最後の機会であり、金銭問題を本気で意識した最初だったように思う。しかし、そのような意識を持とうとしても、どうしても力が湧いてこないようなある意味「重傷」を負って受けた試験であった。そのころにはもはや試験の得点なぞには心の重点がおけなくなっていた。「受験勉強の頃」からは、ほんの少しだけ大人になっていた。


 化学系の研究室に配属されていたのであるが、指導教官から試験成績は物理系の学生のようだとの寸評を面接でいただいた。その面接は所属学科の教授・助教授の先生が、確か総出でやってくれていたので、1対10以上だったように記憶している。おとなしく座っていた私に向かって、ある先生がいきなり「君でも緊張することがあるんだね」と言われた。実際、そう見えたのだろう。私は立場上笑いをこらえたが、先生らは声にもして大いに笑っておられた。その立場が羨ましかった。それなりの受験生らしい応対をし、面接を終えて室外に出ると、たちまち順番を待っている同級生らが私に駆け寄り「中で何があったのですか。どうして面接で先生らの笑い声があがるのですか」と訊ねるのである。確かに考えがたい光景であっただろう。「俺のせいじゃないよ」とだけ答え、部屋に戻って次の輪講の準備をしたように記憶している。同級生が敬語を使うのは、これも別のある事情で私が彼らより年上になっていたからである(ここでも大人になっていたのか)。


 修士の2年間と博士の(私の場合には)1年半の間、毎朝8時30分には研究室に到着するようにしていた。人それぞれであったが先輩たちは10時30分が定刻であった。高校3年の夏休みに話が戻りそうであるが、その2時間をつかって学術誌の論文を読み続けることが日課になっていた。電磁気学の英語の教科書は担当の先生にコピーをもらって3回生の時に読み切ったが、その後、量子力学と熱力学についても英語の教科書を買ってきて読んでいた。その程度の勉強はやっていたが、雑誌の論文を読むためにはやはり辞書を片手に、専門用語をあちこちの教科書で調べながら一文ずつ読み進めるしかなかった。最初、先生から紹介していただいた4ページほどの論文を読むだけで1週間くらいかかったように記憶している。しかし、次の論文になるとそれが3日になり、その次は2日、そのまた次は1日というように次第に短くなっていった。級友の中にはいきなり数時間くらいで読んでしまう者もいたが、私は一番時間がかかった部類だった。最初の10本くらいについては完全な訳文をつくった。無駄であるかのようにも思えたが、英語だけでなく日本語力をつける観点からも私には必要な作業であった。卒業論文の中間発表の頃にはこの程度までは進んでいたように思う。


葡萄畑
南仏ニーム近郊の町:カルビッソンの葡萄畑

 輪講という勉強会をやってもらっていて、そこでは各人が研究室のメンバーに注目している論文とその内容を紹介していた。当然私も何度か担当したが、質問に答えられるようになるためには、参考文献も全て読んでおく必要があった。参考文献を読んでも分からない時にはさらにその参考文献を読むことになるので、目を通す論文は止めどなく増えることになった。机の上は論文のコピーをとじたファイルでいっぱいになった。そうこうしている内に、同一著者による論文を何度か目にするようになり、その著者の傾向や特徴が分かるようになってくる。どの著者がその分野の研究を実際上牽引しているのかが見えてくる。各グループの競合関係や協力関係もしかりである。論文に読まされるのではなく、論文が読めるようになり、十数年くらいの大きな研究の流れの中でのその論文の位置が理解できるようになる。会ったこともない異国の研究者の活動が見えてきたことに少し感動した。


 修士課程に進学し、研究課題を決定する頃には科学論文の読み方がこの位まで進んでいた記憶がある。そのおかげで研究テーマを先生から与えてもらうのではなくて、自分で設定することができた(もちろん独力とは言えないが)。指導教官の考えや思惑とは異なっていたようで、何度も議論をしていただいたが、最後には「お前も頑固やな」というようなことを言われ、納得していただけた。ずいぶんと生意気な院生である。しかしこれは先生が私を信頼してくれたと言うことであり、その信頼が私を育ててくれたと思っている。果たして研究テーマに自分で責任を負うことになり、無謀とも言える私の大学院生としての生活がはじまった。



(T. Y., Fukaeminami-machi, 7 Juin 2007 )