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キャンパスライフ

教員のエッセイ

「ストラスブールのゲーテ」

 学生時代の第2外国語はドイツ語だった。今では、「もっと真剣に取り組んでおくべきであった。」と、後悔しきりである。それでも最後に出た授業で使っていたテキストが「Goethe contra Newton」と言うタイトルであったことは覚えている。数学的なニュートンの光学とゲーテの「色彩論」とを対比して論じたものだった。丁度、応用電磁気学で電磁波の方程式を学んでいた最中でもあったので、非常に興味深く読んだ。講義をしていただいた先生の名前は失念してしまったが、満足な約束もしないままに、その先生の研究室を訪ねたことがある。その時に私が先生にした無理なお願いは、「先生の声でこのテキストを読んだ録音テープを頂けないでしょうか?」と言うものだった。その先生は「単位」については厳しいと噂されていた方で、受講者は必ずしも多くはなかったのであるが、このような一学生の無理を数秒間考えられた後に、多分快く、受け入れてくれた。ドイツ語の勉強は、その後の大学院受験での勉強からほとんど進んでいないし、むしろ忘れている。が、この最後の授業では満点に近い「優」をもらった。百ページもないテキストだったと思うが、ほとんど暗記した状態で試験を受けたのだった。友人からは「その努力を英語に向ければ」と言われたが、この努力を続けなかったことを今では悔やんでいる。ドイツ語の「音」が日本人にとっては、非常に馴染みやすいものであることについては異論はないだろうと思う。


ストラスブールの大聖堂
写真1 ストラスブールの大聖堂と「ととや道」に面した
    ゲーテの住まい(右下の赤みがかった壁)。

 昨年の11月のはじめに、チェコとの国境に近いエルベ川沿いの街、ドレスデンを訪れた。かつては「百塔の都」とも呼ばれたザクセンの首都であるが、その街並みは第二次大戦で徹底的に破壊された。この訪問はドレスデン工科大学のある研究室が招待してくれたもので、それは2度目であった。小さなセミナーで1時間半ほどの講演をしたが、残念ながら英語であった。同時期にロシアからの若い研究者もやってきていたのであるが、その彼は英語よりもドイツ語が堪能であった。大学が大学でなくなると、ドイツ語やフランス語を専門としない者が、それらを学ぶことは実際上不可能になる、あるいは不要と見なされるのかも知れない。実際のところ、理系においては、ドイツ語やフランス語でしか読めない論文は無くなっていると言えそうであるし、彼ら自身が英語でものを書いている。しかし、本当にそれでよいのだろうか。世界的に見ても日本語は特殊な言語である。英語は、英国というよりも、米国の軍事力や経済力を背景にした、別な意味で特殊な言語である。「三本の矢」とか「三本の支柱」ではないが、せめてあとひとつは、そこそこ使える言語を身につけたいと思っている。


レリーフ
写真2 3階の部屋の外壁にはゲーテ
のレリーフが飾られている。

 さて、ゲーテは、21歳の時に、ストラスブールに短期間滞在したそうである。街角のレリーフによると、それは1770年から1771年にかけてであった。フランス革命からは20年ほどさかのぼる時期である。彼は、建築物あるいは芸術として、ここの大聖堂に感銘をうけたそうで、短い文章も残したと聞く。このゴチック建築に、若いゲーテは、その工匠であったエルヴィン・フォン・シュタインバッハの高貴な「ドイツ精神」を見たということらしい。そして、この大聖堂の上から眺める日没風景を愛したとされている。このような「自然観察」の経験が、後の「色彩論」の準備のひとつになったのだろうか。ちなみに、調べた限りでは、エッフェル塔が完成するまでは、ここの大聖堂が欧州で最も高い建築物であった。その当時の欧州外のもっと高い建築物にはクフ王のピラミッド(146.6 m)がある。その差は4.6m。


 ゲーテの住まいは大聖堂にほど近い36 rue du vieux marché aux poissonsであった。無理に日本語にすれば、「昔からの魚屋通りの36番地」となるだろうか(ここで、深江浜から有馬温泉に通じる「ととや道」を思い出すことの出来る海事科学部の私は幸せ者だと思う)。この大聖堂に面している古い家の一階で数世紀にわたって続いていた薬局に、よくゲーテが入り浸っていたという。こちらの観光案内書によると、彼は薬剤師の友人とよく話し込んでいたとか。3年前にストラスブールを初めて訪れた時にはまだその薬局が入っていたように記憶しているのであるが、今では市内の文化活動についての案内所になっているようである。その内部には蒸留作業を描いた壁画が残されている。また天井を見ると、コウモリが虫を追いかけているユーモラスな絵が描かれている。おそらくゲーテも同じ絵を見たのだろう。ゲーテがここで何をしていたのか、調べてみたいと思うようになっている(ここの大学で法学を学んだこと、ルイ16世の王妃となるマリー・アントワネットとのニアミス、2歳年下だったある村の牧師の娘フリーデリーケとの恋愛、そして、おそらくは彼女に捧げた「野バラ」の作詞とかはよく知られているのだけど)。ことによると、当時の薬局は、最新の化学や生物学、医学の情報発信基地だったのかも知れない。あるいは薬剤師仲間には彼らの内部でのみ使用可能な、特殊なネットワークがあったのかも。この時期、フランスでは、確かディドロら「百科全書派」が活躍していたのであっただろうか。


製薬風景
写真3 私は強いお酒でも蒸留しているのかと思っていたのであるが、デンマーク
に留学中の薬学部出身の方によると、伝統的な製薬風景らしい。

 さて、我々の時代はと言えば、また「疾風と怒濤」の局面にもどった感がある。より高度な科学技術を手に入れたとしても、「人間の歴史」は繰り返されるしかないのだろう。しかし、それがたとえ大ローマ帝国の皇帝のものであったとしても、勝手気ままな「喜劇」につき合わされるのはゴメンである。


(T. Y. Strasbourg, 1. Janvier 2004)