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キャンパスライフ

教員のエッセイ

「受験勉強の頃(下):断絶と継承?」

 ここでは、高校での各科目についての受験勉強とその後の勉強との間にある「断絶と継承関係」について考えてみたい。考えるといっても、我が身をふり返るだけであるが。


国語:国語の授業で最も記憶に残っているのが、高2の時、確か、藤田道也先生が漱石の「こころ」を数ヶ月も使って論じてくれたことである。受験校としては異例のことだったのかも知れないが、漱石の文学とともに道也先生のそのような授業方針に感銘をうけた。

 好きだった古文や漢文も今では全く読まなくなった。その半面で、英語や他の外国語はよく読む。しかし、外国語のものを読むときでも、我々はどうしても、日本語に置き換えてそこに書かれてある物事を理解する。これ以外にないのも事実である。この意味で国語の勉強はもっとも大切だということになる。会話のようなものを別にすれば、「英語力とは日本語力である」、といっても間違いではないのかも知れない(漱石の時代だけでなく、今でもそこには文学のチャンスがあるかも知れない)。

 大学に進学したとして、最初に国語力が問われるのは、おそらく、卒業研究をまとめる時である。ほとんどの学生は大学4年生になっても、いい日本語が書けない。しかし、数十人にひとりくらい、立派な日本語を書く学生と出会うことがある。彼らは例外なく読書好きであった。自分でものを考える力は、それを表現する力とほぼ同義であると思う。この意味では、高校までの国語には表現方法という視点が抜けていたように思う。大学の講義でもそのままであり、4年生になってあわてて文章を考えるというのが大半の大学生の通る道なのかも知れない。日本の国語教育の欠陥であるように思っている。日本人が英語下手といわれるのも、実は自分の考えを表現する訓練が足りないということではないか、と思ったりもしている。


数学:誰がなんと言おうとも、主観的には、例の19点からは程なく立ち直ったつもりである(ここではこだわったようなフリをしているだけである、ちょっと苦しいか?)。数Iと数IIBは「テクニック」、数IIIは「赤チャート」を使った。3年の夏休みの終わりまでには、章末の問題を含めて全部やった。3年生の2学期には、授業でかなり難しい問題集をやったのを覚えている。これとは別に、「大学への数学」とかいう雑誌の何冊かと、確か「解法の探求」という同雑誌の別冊を丁寧に勉強した。数学が得意になったようには思わなかったが、無難な線まではたどり着いたように思っていた。しまいには「トップエリート」とかいう超難問集を買ってやっていたが、級友からはよくからかわれた。当時、級友の間では、「エリート狂想曲」(弓月光)という漫画本が回覧されていたし、私も愛読した。私自身も受験生でありながら受験数学をからかっていたのかも知れない。少なくとも級友の何人かは、私がふざけていると思っていたようだった(半分は正解)。

 私の進学した大学には当時2次の入試に英語がなかった。そういうこともあったのか、数学はやたらできるけどあとはからっきしダメという級友が多かったように思う(失礼)。そんな中にあって、私の数学力では教養の数学にもついていくのが難しかった。19点ではなかったが、最初の試験が35点ほどしかなく、驚いた数学の先生が心配して何度も声をかけてくれたのを覚えている。「ウチヤマ、ちゃんとついてきているか?」と。自分のことながら、その後の経過は忘れたが、卒業したところを見ると単位だけはなんとかもらったのだろう。

 数学を勉強しなおしたのは、学部に進学してからだった。学部の数学の授業には出ずに、スミルノフの「高等数学教程」を最初から9巻ぐらいまでは結構たんねんに読んだつもりである。プラズマ物理に関連して出てきたベクトル解析と応用物理の先生による特殊関数論を含む物理数学がそのような契機になった。やはり私には数学のセンスはなかったようで、物理を勉強するなかで、順次より高度な数学を学んだように思う。

 高校の頃、数学は役に立つのか?という議論がけっこうなされていた。みんなの念頭には微分や積分があった。今では、高校の数学でも大学では役に立つと考えている。国語とも関係するが、論理学というものを学ばない日本の教育では、数学はそれを補う役割を果たしているのかも知れない。


理科:私の高校では1年次に生物と地学を学び、物理と化学とは2年からはじまった。地学ではプレートテクトニクスと生命の起源についての自由研究をやった。かなり好きなことをさせてくれる先生だった。このころには、かのブルーバックスを乱読した。生物は授業について行くのがやっとであった。呼吸や光合成における反応がいまいちピンとこなかったのである。「理解できなくても、私はちゃんと呼吸をし、消化をしている」と自分を慰めた。今では研究テーマにこそしていないが、放射線生物学との関連で、生命と生物の分野は最も関心のある分野になっている。

 化学は担任だった赤星先生が、自作のプリントを配布してくれたのを覚えている。原子論の誕生のあたりを詳しく解説したもので、これもまた受験校としては異例のものだったのかも知れない。先生は、このような実例を通じて、正しい思想を維持することの困難さを私たちに教えようとしてくれたのだった。古い時代の原子論者はみんな暴力を持ってこっぴどく弾圧されていたのである。受験勉強には、化学IとIIとが合本になった「総括チャート」を使った。これに書かれていた内容は、ほとんど全て覚えてしまった。書き込みをどんどんやって、7色以上のマーカーで全体がコテコテになってしまった。確か就寝前の30分間は布団の中でもっぱらこれを読んでいた。覚えていたアミノ酸の名前を級友の前で諳んじ、模擬試験の前に彼らにプレッシャーをかけるのが私の大切な息抜きになっていた。「ねえ、トリプトファンの構造式はこれでよかったっけ?」とか(この「嫌な癖」は大学院入試の時にも発揮され、大いに同級生を「鼓舞」した?)。

 物理も授業についていけないままだった。夏の始めには私の将来を案じてくれていた友人のアドバイスで「根底500題」とかいう、かなり基本的な問題集にとりかかり、8月の最初には終いまでいった。後は「親切な物理」の上・下巻にとり組んだ。受験に関係の無くなっていた光学の部分もやった。結局、章末の問題も全て仕上げたように思う。その後は「難問題の系統と対策?」という問題集にとり組んだが、それは例題だけに終わったと思う。

 例の19点以外に、もうひとつ覚えている点数が、物理の2学期の期末試験での97点。どうして満点でなかったのかは忘れたが、クラスではもう一人同点がいたが一番よかったと記憶している(彼はT大の先生になった)。これに一番驚いたのは担任の先生であった。夏休みの13時間の効果がこの時期になって現れたのだろう。理科の得点を上げるのは最も簡単なのだろうか。19点以来、試験の点数を問題にすることは意識的に止めていたのであるが(「人の価値は点数でははかれない」とか言いつつ)、この97点は本当に嬉しかった(しかし、平均すると58点になってしまう)。

 「親切な物理」が気に入った理由は、それの物体の運動に関するところを読むことで、微積分の理解が深まったからであった。実際のところ、大学に入ってからの物理や化学では、数学が切り離せないものとして現れてくる。教科や科目間の関連については、高校の段階では例が少ないこともあり、意図的に生徒には指し示さないことになっているのかも知れない。しかし、人間による認識のこのような絡み合いこそが、勉強の面白いところであると思う。

 これと同じような「感動」は、さらに低学年の時に、円周率が無限小数になることを知った時にも味わった。今、この円周率が「3」になっていると聞く。科目とその内容を切り縮めることだけは止めてもらいたい。それは、学ぶ喜びを奪うことである。もう少し大げさに言うと、生きる喜びを奪うことである。

 おや、ページ数が足らなくなった。(下)の次は(完)にしよう。

つづく

イメージ図

(T. Y., Strasbourg, 8. Dec. 2003)